「解体新書」の画家 小田野直武ゆかりの角館武家屋敷
↑<上の写真をクリックすると、大きな写真になります>↑
────────────────────────────
さくらの旅、東北へ出かけましょう。
秋田県角館市の、武家屋敷です。
青柳家、石黒家、小田野家、河原田家、岩橋家、松本家、陶家、など
どこも、素晴らしい桜の数々で、多くの観光客であふれていました。
ここの小田野家で、画才を発揮したのが、小田野直武です。
小田野直武(1749~1780)は、角館城の城代・佐竹義躬の槍術指南役
であった、小田野直賢の四男として生まれました。
幼い頃より絵の才能を発揮し、狩野派の画法から、浮世絵、琳派、
漢画等、いろいろな画風を学びました。
その名は、藩の内外に聞こえ、やがて杉田玄白が、『解体新書』に
入れる挿絵の画家をさがしていた時、平賀源内が、小田野直武を推薦
したのです。
この『解体新書』は、ドイツの医師クルムスの医学書のオランダ語
訳『ターヘル・アナトミア』を、日本語に翻訳した書です。西洋語か
ら日本語への、初の本格的な翻訳書となりました。数々の苦心は、
『蘭学事始』に詳説されています。
そして、そのときに編み出された翻訳語「神経」「動脈」「軟骨」
などは、今でも使われています。
当時は、人間を解剖して、内臓や、骨格の構造を調べるなんて、
とんでもない所業だと考えられており、前田良沢、杉田玄白らは、
大変な批判にさらされました。
しかし、敢えて新分野を切り開いたことで、西洋医学を吸収し、
以後の医学の進歩に果たした役割は極めて大きかったといわれます。
何事につけても、先駆者というのは、あらゆる批判や非難、悪罵
中傷を覚悟で、人類全体の福祉に貢献せんと、突き進んでいったの
ですね。
人体構造を忠実に写生せんと、一心に絵筆を握る、小田野直武の
すがたが、まぶたに浮かぶようでした。
その『解体新書』の初版本が、青柳家の庭園内、ハイカラ館に展示
されています。
桜はもちろん、いろいろな見所いっぱいの、武家屋敷です。