「日本七名城の一つ」司馬遼太郎が絶賛 青森・弘前城
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歴史作家・司馬遼太郎氏が「街道をゆく」の中で、「日本七名城の一つ」
と絶賛した、北の名城、青森県弘前市の、弘前城です。
例年、桜の開花は、ゴールデンウィークに重なり、たくさんの観光客が
訪れますが、今年は気象のいたずらか、4月26日に雪が降りましたので、
「雪と桜」が同時に見られた、珍しい春となりました。
ここには、ソメイヨシノ、シダレザクラなど、約50種類、2600本
もの桜が咲き乱れ、その中には、1882年(明治15年)に植えられた
日本最古のソメイヨシノや、幹の周囲が5m15cmにもなる(これも、
日本最大)の木もあります。桜のトンネルも、有名ですね。
明治、大正の頃より、シーズンには観桜会が開かれ、特に夜桜の美しさ
は見事で、毎年盛況だったのですが、残念ながら、昭和19年、20年、
21年のときだけは、開かれませんでした。
戦争末期、そして敗戦の直後には、とてもそのような気持ちにはなれな
かったのでしょう。
「散る桜 残る桜も 散る桜」
禅僧良寛の辞世といわれています。なんとこれに歌詞がついて、曲がつき、
鶴田浩二さんが歌っていました。ご存知でした?
特攻隊員の気持ちをあらわす歌として、歌われたと聞きますが、いえいえ、
特攻隊だけではありません。すべての人にとっても、
「散る桜 残る桜も 散る桜」
でありましょう。我が身の無常を、常に忘れず、聞法精進したいと思います。
「匂いやさしい白百合の」あの名曲発祥の地 北上展勝地
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北上川ぞいに、合計10000本の桜が咲き乱れる、展勝地は、高松
公園とならんで、岩手を代表する桜の名所です。併せて10万本のツツジ
も、見事です。
約2kmにわたる桜並木を、舟から眺めるのも、人気のようです。4月
の花見シーズンには、付近が渋滞しますので、お気をつけ下さい。
さて、北上川といえば、流路延長249km、流域面積10,150km²で、
東北地方では最大、全国でも4番目に入る大河川です。古来、この流域は
豊穣の地であり、多くの文化、生活を育んできました。
盛岡市、花巻市、北上市、奥州市、一関市などを通って北から南へと流
れ、宮城県を経て、石巻市で海に流れ込む、そんな壮大なスケールを地図
で見せながら、中学時代の社会科の恩師、上妻勝吉先生は、「ええ、この
北上川といえば、有名なのが、北上夜曲、ですね。みんな知ってるかな?」
中学生が、知るはずもない。「そうか、知らないか。じゃあ、これも一つ
勉強ですね」やった!と生徒が拍手、喝采。「では、歌います」
そう、我等が上妻先生は、地理を教えながら、各地にまつわる歌を授業
中に歌ってくれるので、有名だったのです。だから、授業中の教室から、
拍手喝采、続いて、手拍子が聞こえてきたら、そこは、上妻先生の地理の
授業だと、すぐ分かったのです。
ああ、なつかしや、「北上夜曲」、数多くの歌手が手がけましたが、ここ
は一つ(これも、先生の口ぐせ)、マヒナスターズのオリジナルでどうぞ。
この桜の名所のすぐ近く、レストハウスの脇に、「北上夜曲発祥の地」と
いう記念碑が立っています。
日露戦勝記念の桜 盛岡・高松の池
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岩手県盛岡市の高松公園、高松の池の桜は、北上展勝地とともに、
岩手県で2ヵ所、全国桜の名所100選にえらばれています。
この池は、江戸期、南部藩が城下町の建設にあたり、治水の一環と
して沢であったこの地に築いた堤を、のちに池としたものです。
桜は、明治39年、日露戦争に勝利したことを記念して、植樹され
ました。
現在では、池の周辺に800本もの桜が咲き誇り、シーズンには、
たくさんの観光客で、にぎわいます。
しかし、そのもとが日露戦争勝利記念であったことは、意外と知ら
れていないようです。
明治年間、日清戦争で、清(現在の中国)に勝利し、勢いにのる日本
軍は、大国ロシアを相手に、戦争を始めました。陸軍でいえば、旅順
をめぐって、203高地の戦いや、東郷元帥のT字戦法で知られる、
日本海海戦など、海と陸で、激戦となりましたが、当時ロシア国内で
起きた血の日曜日事件や、革命などの混乱、反乱もあって、ロシアは
降伏し、日本の勝利となりました。
このように、決して軍事力で圧倒したとはいい難い戦争でしたが、
とにもかくにも勝利したということで、神国日本は無敵であると
いう幻想が、やがて無謀な中国侵略、そして太平洋戦争へと突入
していった、と指摘する歴史家も多くあります。
そして、太平洋戦争では、神国日本の幻想は極に達し、最後は神風
特別攻撃隊などの悲劇を生むことにもなりました。
そのときの、特別攻撃機に「桜花」という名前がつけられたのも、
今となっては、悲しい歴史でありましょう。
願わくは、そんな悲しい歴史を教訓として、平和と幸福の象徴として
の「桜」を見る、高松の池であって欲しいと、思わずにおれません。
元気な子供たちが歓声をあげて走っていったのが、印象的でした。
「解体新書」の画家 小田野直武ゆかりの角館武家屋敷
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さくらの旅、東北へ出かけましょう。
秋田県角館市の、武家屋敷です。
青柳家、石黒家、小田野家、河原田家、岩橋家、松本家、陶家、など
どこも、素晴らしい桜の数々で、多くの観光客であふれていました。
ここの小田野家で、画才を発揮したのが、小田野直武です。
小田野直武(1749~1780)は、角館城の城代・佐竹義躬の槍術指南役
であった、小田野直賢の四男として生まれました。
幼い頃より絵の才能を発揮し、狩野派の画法から、浮世絵、琳派、
漢画等、いろいろな画風を学びました。
その名は、藩の内外に聞こえ、やがて杉田玄白が、『解体新書』に
入れる挿絵の画家をさがしていた時、平賀源内が、小田野直武を推薦
したのです。
この『解体新書』は、ドイツの医師クルムスの医学書のオランダ語
訳『ターヘル・アナトミア』を、日本語に翻訳した書です。西洋語か
ら日本語への、初の本格的な翻訳書となりました。数々の苦心は、
『蘭学事始』に詳説されています。
そして、そのときに編み出された翻訳語「神経」「動脈」「軟骨」
などは、今でも使われています。
当時は、人間を解剖して、内臓や、骨格の構造を調べるなんて、
とんでもない所業だと考えられており、前田良沢、杉田玄白らは、
大変な批判にさらされました。
しかし、敢えて新分野を切り開いたことで、西洋医学を吸収し、
以後の医学の進歩に果たした役割は極めて大きかったといわれます。
何事につけても、先駆者というのは、あらゆる批判や非難、悪罵
中傷を覚悟で、人類全体の福祉に貢献せんと、突き進んでいったの
ですね。
人体構造を忠実に写生せんと、一心に絵筆を握る、小田野直武の
すがたが、まぶたに浮かぶようでした。
その『解体新書』の初版本が、青柳家の庭園内、ハイカラ館に展示
されています。
桜はもちろん、いろいろな見所いっぱいの、武家屋敷です。
「不死」の薬を焼いたから 「ふじ山」という説
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日本最高峰3776mの富士山は、富士五湖から見た桜とのコラボも
キレイですが、こちら静岡県側からも、絶景ポイントがいくつもあります。
上の二つは、沼津市付近からのものです。
さて、この「ふじさん」という名前には、諸説がありますが、有名な
竹取物語には、最後にこの山が登場します。
かぐや姫が、いよいよ月の都へ帰らねばならなくなったので、時の帝は、
軍勢を送り、これを阻止しようとします。しかし、願いはかなわず、姫は
月へと帰ります。
その別れにあたり、かぐや姫は、不死の薬と天の羽衣、帝を想う気持ち
をしたためた手紙を贈ったのでした。
けれども、帝は「姫のいなくなったこの世で、いくら不老不死を得ても
意味が無いではないか」と、それらの品を、駿河国(今の静岡県)の、
日本で一番高い山で焼けと命じたのです。以後、その山は「不死の山」
(後の富士山)と言われるようになり、また、その山からはいつも煙が
上がるようになったのでした。
ここに登場する「不老不死の薬」、そういえば、中国で最初に統一国家
をつくった、秦の始皇帝も、野望を成し遂げた最後に追い求めたのは、
不老不死の薬でした。四方に使いを出し、不死の薬を探させましたが、
中の一人は、日本にもやってきた「徐福」という人でした。滋賀県の、
湖西地方には、彼がやってきたことを示す伝説が残っているようです。
だから、始皇帝が不老不死の薬を追い求めたのは、いかに切実であっ
たかが、うかがえます。しかも、ある策士にだまされて「永遠の輝き
を持つといわれる水銀を服用すれば、命永らえることができる」と信
じて、水銀を飲むようになり、かえって命を縮めたと言われています。
皮肉なものです。
いかに不老不死を求めようとも、たとえ強大な権力をもつ皇帝であ
っても、かなわぬ夢でしかなかったのです。
いつの時代でも、人は老い、病に苦しみ、必ず死んでいかねばなり
ません。これを仏教では、「生苦、老苦、病苦、死苦」の四苦で教え
られています。
シッダールタ太子も、この現実に驚かれ、どこかに真の幸せがなか
ろうかと、29歳のとき、地位も、財産も、家族も、すべてを捨てて
さとりを求める道に入られたのでした。
やがて、勤苦6年、35歳の御時に、数あるさとりの中でも最高の、
仏のさとり」を開かれ、釈迦如来となられたのでした。
「不死の山」とも言われる名峰を眺めながら、ふと中国、インドへと
思いを馳せたのでした。