江戸城 外堀の桜 市ヶ谷も名所の一つです
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徳川家康が江戸幕府を開いてより、江戸城の構えはますます整備
されていきました。元々入り江だったところや、天然の河川に加え、
新たに開削した水路を加えて、内堀、外堀の、守りが出来上がって
いきました。
現在、市ヶ谷駅周辺の水路も、その外堀(濠)の一部です。特に
飯田橋から市ヶ谷にかけての土手の桜は、多くの花見客でにぎわう
ところです。酔っ払いが多いのが、ちょっと困りますが・・・。
さて、その外堀は、両国橋~神田の万世橋(秋葉原そば)~水道橋
~市ヶ谷~四谷~赤坂~溜池~虎ノ門~御成門~東京湾へ と続く
壮大なものです。
さらに、内堀が、ほぼ現在の皇居周辺の堀と重なりますから、
水路によって厳重に護られていたのが、江戸城だったと分かります。
これほど壮大な城を築き、280年にも及ぶ幕府の基礎を築いた
徳川家康でしたが、晩年には、
「人の一生は 重荷を背負って 遠き道を行くが如し」
と語ったといわれます。
人の一生と言ってはいますが、家康は、自分の一生を語ったので
ありましょう。重荷とは、苦しみですから、死ぬまで人生の様々な
苦難を背負い、遠き道、つまり果てしない旅路を、死ぬまで歩み続
けねばならなかったと、嘆いております。
壮大な城を築いても、征夷大将軍に昇りつめても、真の安心も、
満足も、なかったことがうかがえます。
写真では、その堀にそって走るJR中央・総武線が写っています。
また、水面で鴨が遊んでいたので、こちらも撮っておきました。
都会の喧騒から、一歩入ったところにある、外濠公園の桜も、
なかなかいいものですよ。
上野公園 動物園も有名ですが こんな悲話も
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不忍池から、細い道路を挟んで高台となっているのが、上野公園で、
こちらも、桜の名所です。美術館、博物館、など、さまざまな文化的
施設が、この一帯に集まっていますが、中でも、上野といえば「動物園」
というくらい、パンダで有名になり、地方からわざわざ見に行かれた方
も多いのではないでしょうか。かく言う私も、親子で行きました。
ただ、最近は、パンダはいなくなって、少々入園者数も減少ぎみだ
とか。それと、見せ方がうまくて面白いと評判の、旭山動物園に急追
されているとも言われます。
とはいえ、毎年200~300万人の入園者というのは、すごい数です。
さて、明るい桜のショットのあとで、暗い話でなんですが、上野動物園
といえば、避けて通れない話が、しかも子供でもよく知っている話があり
ます。絵本では「かわいそうな ぞう」(金の星社)となっています。
昭和11年、上野動物園のヒョウが逃げ出し、14時間後に無事捕獲された
のですが、「猛獣が逃げ出したら、大変だ」という教訓を残しました。
やがて、太平洋戦争が始まり、緒戦こそ連戦連勝でしたが、やがて戦局
は不利になり、本土空襲も激化すると、上野動物園も爆撃されるかも知れ
ないということが、危惧されるようになりました。
実際、ベオグラード空襲では、猛獣が街に逃げ出しパニックになりました。
日本でも、いつ同じようなことになるか、わかりません。
ライオンやクマなどの猛獣は殺処分され、残る心配は、象だけになりま
した。しかし、薬品を注射しようとしても、針は折れるし、毒入りのエサ
を出しても、吐き出してしまって、なかなか処分できません。
しかたないので、エサを一切与えず、餓死させることになりました。
ところが、おなかがすいた3頭のゾウは、教え込まれた芸をすれば、
エサをもらえるかと思って、一生懸命、芸をしたのでした。
しかし、飼育係は、一切エサを与えませんでしたので、とうとうジョン、
トンキー、ワンリーの3頭は、餓死していったのでした。
この事件は多くの人に影響を与えました。
例えば、ラジオ「秋山ちえ子の談話室」では、8月15日には毎年、
この絵本を朗読されていました。
戦争がもたらす、さまざまな悲劇の一つです。
不忍池 ボートから見る桜もまた楽し!
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上野公園は、桜の名所ですが、中でも人気の不忍池では、この
時期、ボートに乗って、水上から眺める桜の美しさはまた格別です。
男女のカップルや、親子で、ゆらゆらとゆられ、春風に吹かれなが
らのひと時は、俗世のいやなことも忘れさせてくれます。
ここは人工の池ではなく、かつて東京湾の入り江の一つだった
所が、海岸線が後退したために、周りが陸地になり、この部分が
池となって、残ったのでした。
さて、そんな中を、東京では、地下鉄工事が進み、銀座線に始
まり、丸の内線、日比谷線、千代田線、半蔵門線など、次々と開業
しましたが、実はもと海だったところや、川の下やら、いろんな
水路の間を抜けて工事が進んだのでした。
そのため、この不忍池近くを、地下鉄千代田線が通るため工事が
行われていたとき、土砂崩れが発生し、なんと不忍池から、地下鉄
工事のトンネルに約3万トンの水が流れ込んだことがありました。
昭和42年のことです。
便利な生活のかげには、大変な難工事や、涙ぐましい努力の蓄積が
あるのですね。
私もしばらく、この池の近く、その名もズバリ、「池の端」という
ところに住み、千代田線の根津駅を利用していましたが、そういう
事故があったことは知りませんでした。
中国のことわざに、「水を飲むとき、その井戸を掘った人の苦労を
思い出せ」といわれます。
地下鉄で通るとき、工事をした方々の苦労をしのぶことにしたい
と思います。
射水市太閤山 薬勝寺池公園の桜
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富山県の中央部、射水野といわれる区域にあった、小杉町、大島町、
大門町、下村、そして新湊市が合併してできたのが、射水市です。
その南部に広がる丘陵地が「太閤山」で、そこにある薬勝寺池公園が
桜の名所として、近年、ファンを増やしています。
「太閤山」という地名は、かの戦国時代、後の太閤、豊臣秀吉が、
富山城の佐々成政を攻めた富山の役のとき、この地に陣を敷いたことに
由来します。
そのとき、秀吉は、兵の士気を鼓舞するために、相撲大会をもよおし、
その後が現在の「太閤山相撲場」になったといわれています。(ホント?)
秀吉ゆかりといえば、太閤山には、「千成」という地名も残っており、
言うまでもなく、秀吉の旗印「千成びょうたん」が語源です。
なお、この薬勝寺池は、水のきれいな富山県の中でも、特に有名で、
「とやまの名水」にも選ばれています。写真にもあるように、桜の花と
噴水の幾何学的なラインが、おもしろい美を演出しています。
私が、毎月、親鸞聖人の教えを勉強に行っている「浄土真宗親鸞会館」は
この射水市にあります。薬勝寺池公園から、車で3分もかからない所です。
富山市松川べりの桜
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富山県富山市のまさに中心部、富山市役所や、富山県民会館などが
集まる、市の真ん中を流れる松川べりが、桜の名所です。お茶屋さんが
開き、遊覧船が行き来して、4月の10日前後は、大変な賑わいです。
その時期に開催されるのが、チンドン・コンクールです。チンドン、
と言って、分からない世代もあるでしょうが、開店セールの宣伝とか、
催し物の案内をするために、クラリネットやサクソフォーン、鐘や太鼓
で演奏しながら、口上を述べたり、チラシを配ったりする、宣伝部隊の
ことです。いわゆる「チンドン屋」さんたちの、全国コンクールです。
こんなのやってるの、おそらく、富山だけではないかと思うのですが、
大会当日には、全国からチンドン屋さんが大集結して、各々の得意な
パフォーマンスを繰り広げます。
やはりそれなりの年代の皆さんにとっては楽しい催しで、県内外から
見物客も多く集まります。だから、花見の宴会ではなくて、チンドン屋
さんの演奏で、松川べりは、とってもにぎやかなのです。
ついでに、この川を行く遊覧船には、「滝廉太郎号」と、あります。
あの「荒城の月」などで有名な、作曲家の滝廉太郎さんです。どうして
富山で、滝廉太郎なのか。ナゾです。